ねむ
2002年1月4日今羽田でジュニアパイロットで見送って
娘が帰ったら、帰りの車の中から見えた
夕日が、今日の夕日は無茶苦茶綺麗で素敵だった。
気分の問題か。
正直言って、ここんとこ、娘とたまにあってても
何だかイライラしちゃう事が多くて。
かわいいんだけど、なんだろう。
確かに、もう小学4年生になろうというのに
必ず一日3回は何かをこぼすし。
でも、昨日の夜、ぐったりしながらちょっと話した事が
東京でパパ(自分)と会ってることは、どうやら
向こうの家族や学校の友達には、あまり言ってはいけない
と、母親に言われてるらしい。
本人は、いっぱい飛行機も乗ってるし
ディズニーランド行った回数とか一番多いし
ディズニーシーも学校で一番乗りだったからみんなに言いたい
んだけど、ママがダメだと言うのが不思議で、
「なんでだめなの?」とか言う話をした。
「ママに聞いた方がいいよ。離婚してっからいろいろあるんじゃない?」
って言ったら
「だから、ママよりパパに聞いた方がいいと思ったんだ」
とか言うし。
離婚の意味も良くまだ分からないのに、確かに大人っぽい
話の流れ。
きっと、東京のココは、娘にとって遠くにあるとっておきの
逃げ場所になってるんだなって、感じた。いいことだと思う。
そうなのか。そう思う。
話してて感じるのは、やっぱり、実家では「子供」を演じてる面が
大きいような。子供であることを一生懸命演じる。
友達やネットや、ゲーム、テレビ、ビデオ、スカパーから入ってくる情報
は、それはそれで、確かにインプットされてるし、言葉や知識としては
いろいろ知ってて怖いぐらい。
で、その知識に実践が追いつかないのに、子供の役割を演じなきゃいけない
そんな感じがした。
ってはなしてると、やっぱり、答えを出してあげなきゃいけない面と
そのまま「大丈夫だよ」ってだきしめてあげる面と、
両方子供には必要だ。
答えを出す、つっても、昔と違って変なごまかしは全然利かないし、
中途半端な言葉や言動は、かなり見抜かれてる。
「それはね、●●●だから●●●なんだよ」ぐらいの適当なこというと、
違うって知ってても「そっかー。パパっていっぱい知ってるね」ぐらいの
子供らしさを演じられちゃうから、困る。
きっと、その辺含んで、子供と一緒にいて最近疲れちゃうのは
自分自身の生き方が、きちんとしてないと、やっぱりごまかし始めちゃうからかなー、とか、感じた。
子供はまさしく、親の鏡だと思う。
見抜けるヒトとそうでないヒトはいるとは思うけど。
昔、「お里が知れる」とかいう言い回しがあった。
育ちとか、そんなようなものが見栄と体裁の中で
グルグル回ってる、やなたとえの言葉だ。
今でも、そんな言葉がまかり通る家もあるにはあると思うけど
「お里が知れる」という人々が守り続けているモノ、
これなんか、等身大の自分で勝負しなくていいから
とても楽だと思う。家柄や名家、妙な品がある家の方々は
とても楽だ。
古き良き時代、とでもいうか、今の情報オーバーの世紀では
それじゃやっぱり通用しない。お金、と同じぐらい、むなしいモノでもある。
誰と出会おうとも、何をやって生きていこうとも
どんな集団に入ろうとも、最後は
一対一で自分と相手の話になる。
それしかない。
とかなんとか、喉いたいし、イライラするし、鼻水でるし
家の中は戦場の後みたいにぐちゃぐちゃになってるし
子供と会えたのはうれしかったけど
この喉の痛みを、なんとかせぃー、という勢いで
書く日記は、こんな感じになる。
ゆっくり今日は寝たい。寝たい寝たい寝たい!!!
娘が帰ったら、帰りの車の中から見えた
夕日が、今日の夕日は無茶苦茶綺麗で素敵だった。
気分の問題か。
正直言って、ここんとこ、娘とたまにあってても
何だかイライラしちゃう事が多くて。
かわいいんだけど、なんだろう。
確かに、もう小学4年生になろうというのに
必ず一日3回は何かをこぼすし。
でも、昨日の夜、ぐったりしながらちょっと話した事が
東京でパパ(自分)と会ってることは、どうやら
向こうの家族や学校の友達には、あまり言ってはいけない
と、母親に言われてるらしい。
本人は、いっぱい飛行機も乗ってるし
ディズニーランド行った回数とか一番多いし
ディズニーシーも学校で一番乗りだったからみんなに言いたい
んだけど、ママがダメだと言うのが不思議で、
「なんでだめなの?」とか言う話をした。
「ママに聞いた方がいいよ。離婚してっからいろいろあるんじゃない?」
って言ったら
「だから、ママよりパパに聞いた方がいいと思ったんだ」
とか言うし。
離婚の意味も良くまだ分からないのに、確かに大人っぽい
話の流れ。
きっと、東京のココは、娘にとって遠くにあるとっておきの
逃げ場所になってるんだなって、感じた。いいことだと思う。
そうなのか。そう思う。
話してて感じるのは、やっぱり、実家では「子供」を演じてる面が
大きいような。子供であることを一生懸命演じる。
友達やネットや、ゲーム、テレビ、ビデオ、スカパーから入ってくる情報
は、それはそれで、確かにインプットされてるし、言葉や知識としては
いろいろ知ってて怖いぐらい。
で、その知識に実践が追いつかないのに、子供の役割を演じなきゃいけない
そんな感じがした。
ってはなしてると、やっぱり、答えを出してあげなきゃいけない面と
そのまま「大丈夫だよ」ってだきしめてあげる面と、
両方子供には必要だ。
答えを出す、つっても、昔と違って変なごまかしは全然利かないし、
中途半端な言葉や言動は、かなり見抜かれてる。
「それはね、●●●だから●●●なんだよ」ぐらいの適当なこというと、
違うって知ってても「そっかー。パパっていっぱい知ってるね」ぐらいの
子供らしさを演じられちゃうから、困る。
きっと、その辺含んで、子供と一緒にいて最近疲れちゃうのは
自分自身の生き方が、きちんとしてないと、やっぱりごまかし始めちゃうからかなー、とか、感じた。
子供はまさしく、親の鏡だと思う。
見抜けるヒトとそうでないヒトはいるとは思うけど。
昔、「お里が知れる」とかいう言い回しがあった。
育ちとか、そんなようなものが見栄と体裁の中で
グルグル回ってる、やなたとえの言葉だ。
今でも、そんな言葉がまかり通る家もあるにはあると思うけど
「お里が知れる」という人々が守り続けているモノ、
これなんか、等身大の自分で勝負しなくていいから
とても楽だと思う。家柄や名家、妙な品がある家の方々は
とても楽だ。
古き良き時代、とでもいうか、今の情報オーバーの世紀では
それじゃやっぱり通用しない。お金、と同じぐらい、むなしいモノでもある。
誰と出会おうとも、何をやって生きていこうとも
どんな集団に入ろうとも、最後は
一対一で自分と相手の話になる。
それしかない。
とかなんとか、喉いたいし、イライラするし、鼻水でるし
家の中は戦場の後みたいにぐちゃぐちゃになってるし
子供と会えたのはうれしかったけど
この喉の痛みを、なんとかせぃー、という勢いで
書く日記は、こんな感じになる。
ゆっくり今日は寝たい。寝たい寝たい寝たい!!!
コメント